人間五十年…織田信長の愛した詩は現代人の心にも響く!

織田信長が本能寺の変で舞ったとされる、あまりにも有名な一節ですよね。

実は、織田信長が生んだ詩ではありません。

しかしながら、詩から感じる切なさがなんとも心を奪われます。

どんな時代に誰が作ったのか・・・紐解いていきましょう!

「人間五十年…の詩は誰が作ったの?

この詩は「幸若舞」という題目の芸能として生まれました。

室町時代に「能」と並んで武家に愛された芸能で、武士の華やかさや哀しさを題にしたものが多かったため人気がありました。

平家と源氏の一の谷の戦いで、「平敦盛と熊谷直実」に焦点を当て「敦盛」という題目で披露されました。

題目「敦盛」の悲哀と信長の悲哀

敦盛って誰?  直実って誰?  

平 敦盛
   平清盛の甥で平経盛の子供
   わずか16歳で一の谷の戦いに参戦

昔は16歳といえども、立派な大人として社会に出ていたんですね。

熊谷 直実
   源氏軍の武将の一人で一の谷の戦いに参戦
   少し前に平敦盛と同じくらいの歳の息子を亡くしている

そう。。。もともとはこの二人の物語でした。

一ノ谷の戦いの際、平家側の平敦盛はわずか16歳で参戦し源氏勢に追い込まれ海へと逃げていきました。

そこへ、追い詰めてきた源氏側の熊谷直実が、「平家の大将なのに逃げるのか〜!」と放った一言でこの悲劇が起こってしまうのです。

時代なのでしょうが、その言葉に敦盛は一族を守るということに命をかけたのですね。

振り返り戦いに戻った平敦盛は、熊谷直実に追い込まれてしまうのですが、その幼い顔に少し前に亡くした我が子と重ね合わせて心が揺れてしまいます。

心を鬼にして平敦盛の首をはねるのですが、あまりにも悲しい戦いにその後出家しお経を唱え続けたと言います。

武士の世界の悲哀を劇にしてできた詩が「人間五十年・・・」なんです。

「人間五十年・・・」の意味とは?

思へばこの世は常の住み家にあらず

草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる

南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

引用元:Wikipedia

誰もが一度は聞いたことのある有名な一節です。

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」(じんかん50年、げてんのうちをくらぶれば、ゆめまぼろしのごとくなり)

化天は天上界でも最下層にあるに位置し、人間の50年はわずか1日に等しい時間軸なんだそうです。

化天と比べると夢幻のような一瞬の人生・・ということなのでしょう。

天下統一を目指していた信長が、想い半ばで死に向き合う心の悲哀がとても切なく、耳に残りますよね。

元は「敦盛」から生まれた詩ですが、信長の人生がそのままマッチしてまるで信長の詩のように思っていました。

まとめ

今の時代、医療の発達で寿命も延びたとはいえ、この世に生を受けた以上、毎日を悔いなく感謝の思いで過ごしたいと強く思います。